[Vol.4]「普及しない病名 - COPD」
亡松平康隆・元全日本男子バレーボール監督との思い出―普及しない病名「COPD」
皆さんは、松平康隆さんをご存知でしょうか?
松平監督(ご本人とお会いした時に「松平監督と呼ばせていただいて宜しいですか?」とお尋ねした時に「どうぞ、それで良いですよ」とのご承諾を頂いたため、敢えて「松平監督」と書かせていただきます)は、慶應義塾大学卒業後、実業団のバレーボールチームの選手を経て、1964年東京オリンピックでは、全日本男子バレーボールのコーチとして銅メダル、1965年には同監督に就任、1968年のメキシコ大会では銀メダル、そして1972年のミュンヘン大会では金メダルへと全日本男子バレーボールチームを導いた名監督です(今では当たり前のBクイック、Cクイック、時間差攻撃、一人時間差攻撃、バックアタック、そしてフライングレシーブを開発されたのも松平監督です)。
松平監督(ご本人とお会いした時に「松平監督と呼ばせていただいて宜しいですか?」とお尋ねした時に「どうぞ、それで良いですよ」とのご承諾を頂いたため、敢えて「松平監督」と書かせていただきます)は、慶應義塾大学卒業後、実業団のバレーボールチームの選手を経て、1964年東京オリンピックでは、全日本男子バレーボールのコーチとして銅メダル、1965年には同監督に就任、1968年のメキシコ大会では銀メダル、そして1972年のミュンヘン大会では金メダルへと全日本男子バレーボールチームを導いた名監督です(今では当たり前のBクイック、Cクイック、時間差攻撃、一人時間差攻撃、バックアタック、そしてフライングレシーブを開発されたのも松平監督です)。
松平監督は、全日本男子バレーボールチームの元代表選手の方々と、ミュンヘンにある男子バレーボールの金メダルの偉業を称えるモニュメントを定期的に訪れていたそうです。
ある時、そのモニュメントへ向かう途中の坂道で、松平監督は「どうもこの前に比べると息が切れるなあ…」と感じるようになりました。「まあ、監督もそろそろお歳ですから、それは仕方ないですよ」と周囲の方に慰められていたようです。しかし、「どうもこの息切れは変だなあ、本当に歳のせいだけなのかな?段々悪くなっていく…」と悩まれていました。
ある日、松平監督は、健康関連のTV番組で、木田厚瑞先生(日本医科大学呼吸ケアクリニック教授)が、「COPD」に関して解説されているのを偶然観て、「自分の病気はこれだ!」と感じ、すぐに木田先生の外来を受診しました。
その結果、長年の喫煙歴、診察、肺機能検査、胸部CT等の結果から、「かなり進行したCOPD(シーオーピーディ:慢性閉塞性肺疾患)」と診断されています。
その後、松平監督は、薬物療法、呼吸リハビリテーション、在宅酸素療法を受けながら、バレーボール協会会長の職務やCOPDの啓蒙活動のための講演に尽力されていました。その啓蒙活動の一環として浜松の地を訪れられたことがあり、その際に松平監督の講演の前に、COPDの病態に関する講演の機会を得て、講演前の松平監督とお話をさせていただくことができました(このコラムは、その時に松平監督から直接お伺いした内容を元にしています)。
「自分はCOPDと診断されなくて、随分と辛い思いをした。もっと早く診断されて治療を受ける事ができていればなあ、とつくづく思う。是非、このCOPDという病気を多くの人に知って欲しい。そして、あの息苦しさから早く救われてほしい。そのためには、自分がこの世を去った時には、死因を「肺気腫」ではなく、「COPD」と正式に報道されて、「COPD」という病気が世の中に知られるようになって欲しい!」と熱のこもった、そして優しい眼差しでお話をされました。
2011年12月31日、松平監督は、都内の病院で多くの方々に惜しまれながらお亡くなりになりました。その際のマスコミ各社は、松平監督の功績を称えるとともに、その死因を「肺気腫」と報道していました(Wikipediaにおいても「肺気腫」が死因として記載されています)。
2015年度に実施された「COPDという病名に関する普及率の調査」では、「どんな病気かよく知っている」あるいは「名前は聞いたことがある」と回答された割合は3割未満(27.3%)と、まだまだ認知度が低いことを裏付ける結果でした。
あの時の松平監督の「COPDの普及に対する強い願い」を思うと、残念な、そして淋しい気持ちとなります。
ある時、そのモニュメントへ向かう途中の坂道で、松平監督は「どうもこの前に比べると息が切れるなあ…」と感じるようになりました。「まあ、監督もそろそろお歳ですから、それは仕方ないですよ」と周囲の方に慰められていたようです。しかし、「どうもこの息切れは変だなあ、本当に歳のせいだけなのかな?段々悪くなっていく…」と悩まれていました。
ある日、松平監督は、健康関連のTV番組で、木田厚瑞先生(日本医科大学呼吸ケアクリニック教授)が、「COPD」に関して解説されているのを偶然観て、「自分の病気はこれだ!」と感じ、すぐに木田先生の外来を受診しました。
その結果、長年の喫煙歴、診察、肺機能検査、胸部CT等の結果から、「かなり進行したCOPD(シーオーピーディ:慢性閉塞性肺疾患)」と診断されています。
その後、松平監督は、薬物療法、呼吸リハビリテーション、在宅酸素療法を受けながら、バレーボール協会会長の職務やCOPDの啓蒙活動のための講演に尽力されていました。その啓蒙活動の一環として浜松の地を訪れられたことがあり、その際に松平監督の講演の前に、COPDの病態に関する講演の機会を得て、講演前の松平監督とお話をさせていただくことができました(このコラムは、その時に松平監督から直接お伺いした内容を元にしています)。
「自分はCOPDと診断されなくて、随分と辛い思いをした。もっと早く診断されて治療を受ける事ができていればなあ、とつくづく思う。是非、このCOPDという病気を多くの人に知って欲しい。そして、あの息苦しさから早く救われてほしい。そのためには、自分がこの世を去った時には、死因を「肺気腫」ではなく、「COPD」と正式に報道されて、「COPD」という病気が世の中に知られるようになって欲しい!」と熱のこもった、そして優しい眼差しでお話をされました。
2011年12月31日、松平監督は、都内の病院で多くの方々に惜しまれながらお亡くなりになりました。その際のマスコミ各社は、松平監督の功績を称えるとともに、その死因を「肺気腫」と報道していました(Wikipediaにおいても「肺気腫」が死因として記載されています)。
2015年度に実施された「COPDという病名に関する普及率の調査」では、「どんな病気かよく知っている」あるいは「名前は聞いたことがある」と回答された割合は3割未満(27.3%)と、まだまだ認知度が低いことを裏付ける結果でした。
あの時の松平監督の「COPDの普及に対する強い願い」を思うと、残念な、そして淋しい気持ちとなります。
呼吸器・アレルギー専門クリニックです!
クリニック開院後、10,000人以上の呼吸器(気管支喘息・せき喘息・COPDなど)ならびにアレルギー(花粉症・食物アレルギーなど)の患者さんの診療に携わった経験に基づく「専門的な医療」を提供いたします。